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国策映画を作った父の真実を求めて


第二次世界大戦下では芸術家が自国のプロパガンダに加担した事実がいくつもある。特に映画は「国策映画」という言葉が一般に知られ、日本も力を注いだ。伊勢真一監督「いまはむかし」は、インドネシアで国策映画に携わった父・伊勢長之助の足跡をたどるドキュメンタリー。戦前戦後に渡り記録映画の世界で活躍した父親の真実に、息子が30年越しで迫っている。きっかけは当時の名古屋大学大学院教授・倉沢愛子氏がオランダで日本の国策フィルムを発見したという新聞記事。伊勢は倉沢教授を訪ね、コピー映像を見せてもらえることに。そこで衝撃を受けた伊勢は多くの人に知ってほしいという想いに駆られ、動き始めるが……。公開までの道程を聞いた。

「映画にしたいとは思ったものの金がなかったので、まずは父と同じ世代の映画人に話を聞くことから始めました。そのうち息子が映像の仕事に就いたので、経費節約も兼ねてスタッフに取り込み、計4人でインドネシアに行ったんです。僕はいわゆる社会派ではないので、親父がどんなところで働いていたのか見たかっただけ。それが撮影所に着いたら、ワープしたような、キツネにつままれた感覚になって。まるで同じ時間を過ごしているようで、そこから徹夜明けの親父が現れる気がしました」

報道と比べ「僕は軟派」と冗談めかす伊勢だが、それが奏功したのか、撮影所もさることながら路地の風景が印象的。カンポンと呼ばれる原住民の村に入って取材しているのだが、子どもたちの笑顔がみな輝いている。狭い路地は公私の境界が曖昧でデリケートな場所であろうに、撮影クルーの人柄がうかがい知れる。しかし、一行は辛い現実にも直面した。

「インドネシアは親日的と言われたりもしますが、踏まれた足は忘れないというのか……。話を聞くと、かなり酷い目に遭った人たちがいました」

日本の占領から解放された後、撮影所の壁にインドネシア人を足蹴にする日本人がレリーフとして刻まれた。老人たちは「バッキャロー」といった乱暴な日本語の記憶、性的な恐怖にさらされ逃げ回った体験などを語り、思い出すことさえ拒む人もいた。伊勢は3歳の頃に家を出ていった父親の実像を探るうち、日本の東南アジア侵略の実態にも突き当たり、個人の歴史が、社会や世界の歴史、日本とアジアの歴史に重なっていくことを体感した。

(C)いせフィルム

その後、発端となったオランダ・視聴覚研究所も訪問。他国の映画がレンブラントの絵画などと同様、極めて慎重に保管されていることに感服したという。それはオランダに限らずヨーロッパの人々が第二次世界大戦を人類全体の悲劇としてとらえ、後世に伝え続けるという意思の表れかもしれない。対して、私たち日本人はどうだろう。

「8月ジャーナリズムという言葉があって、毎年8月になるとマスメディアが戦争や原爆を特集しますよね。こういう記念日報道は、日本は特に多いそうです。ただ、NHKのドキュメンタリーなんかもよく見ますが、内容が正しければ正しいほど他人事に思えてくる。でも、自分のこととして受け止めてもらえるよう伝えるのがプロの役割ですよね。そして僕には『間違っているかもしれないけど、こう言いたい』という考えがあります。報道には間違いが許されませんが、映画には映画だからできることがあると思うんです」

本作には長之助が関わった映画も挿入されているが、戦後に撮影された「ニュース特報・東京裁判-世紀の判決」だけ一種異彩を放つ。東条英機をはじめとしたA級戦犯の刑確定を伝えるこの映像には、ラストに憲法9条の文言が添えられているからだ。報道では考えられない演出に観客は大喝采したそうだが、伊勢の心中は複雑だ。

「喝采の理由は、戦争放棄への共感ですよね。父は強い主観として9条を付けたんでしょうけど、戦犯に問われてもおかしくない父が刑を免れ、『東京裁判』を構成・編集したという……。翌年の1949年1月に僕が生まれて、父は『真一』と名付けます。この名前がたまらなくて。真実一路という父の想いを感じずにいられないんですよ。そこには父なりの罪の意識がこめられていると思っています」

長之助・真一父子の写真 (C)いせフィルム


なお、娘で俳優の伊勢佳世がナレーションを担当。撮影に参加した息子の伊勢朋矢を含め、本作は親子3世代で作り上げられたとも言える。伊勢は個人史と世界史を織り成して映画「いまはむかし」を完成させた。痛みも伴いながら戦争や家族の問題と向き合ってきた、その葛藤には考えさせられることばかりだ。他者に伝える難しさを日々痛感する身としても、自分のこととして受け止めずにはいられなかった。

「いまはむかし」
◎2021年10月9日(土)~、名演小劇場にて公開

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