ディーン・フジオカの新たな表情と出会える、深田晃司監督の最新作
2016年の作品「淵に立つ」で第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞した俊英・深田晃司が、監督最新作「海を駆ける」の重要なキャラクターにディーン・フジオカを迎えた。NHK連続テレビ小説「あさが来た」出演以降、国民的スターの仲間入りを果たしたディーンだが、本作「海を駆ける」では甘く優しいイメージとはちょっと違う、時に怖くなるような気配を漂わせている。深田監督も、その存在感を絶賛。
「ディーンさんの演じるラウは“自然の象徴”とも考えられる役柄。そこに私の自然観も反映されていると思います。ラウの行動には意図が見えないようにしたいと考えていたんですよね。そんな中、ディーンさんの少年のような表情や演技を見たらイメージにとても合っていて、あらためて出演していただけて良かったなと」
海に打ち上げられた謎の男ラウが〈生と死〉を操っていく(!?)騒動を描いた本作は、監督の自然観が揺さぶれらる出来事に端を発している。2011年12月、深田は津波と防災に関するシンポジウムを撮影するためインドネシアの街バンダ・アチェを訪れていた。アチェは2004年に津波の被害に遭っていた一方、日本は東日本大震災の記憶がまだ生々しい頃で、現地のシアクアラ大学と日本の京都大学が共同開催した。
「いろいろ考えさせられることが多かったんですよね。災害は数字だけで測れるものではないですけど、アチェの被災者数は約17万人。東日本大震災で2万人ほどですから、いかに大きな災害だったかわかるわけです。しかし3・11の映像を見た時には足元から崩れ落ちるようなショックを受けたのに、アチェの震災には大変なことだと思いつつ海外のニュースのひとつとしか受け止めていなかった自分にも、向こうへ行ってみて初めて気づかされた。そこで、なぜなんだろうと考え始めて……」
差異は当事者意識から来るものだけではない。日本では嫌なことを早く忘れたいという考え方が強いけれど、インドネシアでは打ち上げられたボートがそのまま保存されていたり、水死体の写真を展示していたり、記憶を残すことに積極的。また津波を土産物のモチーフにするなど、負の遺産を観光資源にもしているそうだ。そういう歴史的、社会的背景にも刺激を受けた深田は、インドネシアと共同での映画製作を決意した。
「イスラム教の影響も大きいんでしょうね。遺族も『神様が望んだんだから仕方がない』と言う人が多く、災害との向き合い方の違いを感じました。また、国それぞれの精神性があって、私自身は信仰などないですけど、スピリチュアルな考えを否定もできない。たとえオカルトみたいな話であっても、その世界観はできるだけ映画の中に収めました」
自然や歴史、文化などにまつわる両国の感覚が織り交ざった本作には、終始、不思議な空気が流れている。また、インドネシアと日本の関係にハッとさせられる場面も。深田が「以前にも増して変な映画を作りました(笑)」と語るのも納得だ。アジアを拠点に国際的な活動を展開するディーンはもちろんだが、共演陣も世界観の構築に大きく貢献している。
「鶴田真由さんと太賀さんはインドネシア語の台詞が多いので大変だったと思います。しかも鶴田さん演じる貴子は復興支援のため日本から移住してきた人ですが、太賀さん演じるタカシは生まれた時からインドネシアに住んでいる学生なので、母と息子でインドネシア語の話し具合が違うんですよ。そんな設定のもと、太賀さんはインドネシアの方から見てもインドネシア人っぽいと言われるほど言葉を体得していました。そこには俳優としてのセンスの良さもあるんですよね。共演者に対する反応、反射速度が優れているんです」
本作では、太賀と阿部純子、アディパティ・ドルケンとセカール・サリ、両国の若手実力者4人による他愛のない青春群像も見どころとなっている。深田が「4人はうらやましいほど仲良くなって、それが映画にも反映された」と言うとおり、4人の距離感や淡い恋模様は観ていて微笑ましい。そんな彼らに託された想いは、限られた時間をただひたすらに駆ける=生きることではないか。
「人間の〈生〉とは関係なく、その前にも後にも時間は流れている。海は恵みも災いももたらすので人間はいろんなことを考えてしまうけれど、そこに本当の意味などない。人間の思惑とは無関係に、自然は存在しているんです。この映画は観客自身が自由に受け止め、考えてほしいですね。自分なりに責任を持って取り組んでいますが、映画は百人いたら百通りの意見が出るものにしたいと言ってきました。結論や感情がひとつになるよう提示される映画は危険。私は、観客を思考停止にさせない映画を作り続けていくつもりです」
「海を駆ける」 ◎5月26日(土)~、ミッドランドスクエアシネマほかにて公開 http://umikake.jp/