北村想の「寿歌」を宮城聰が初演出
北村想の代表作「寿歌」は1979年の初演から現在まで、数多くの劇団やプロダクションで上演されてきた名戯曲だ。核戦争後の近未来を背景に展開される、軽やかな会話の衝撃。それは現代社会にこそ響くものがあるだろう。愛知県芸術劇場とSPAC(静岡県舞台芸術センター)は初めての共同企画において、名古屋在住の劇作家・北村の「寿歌」を装いも新たに公演。SPACの芸術総監督・宮城聰が自ら新演出を手掛ける。開幕に先駆けて行われた制作記者会見には北村、宮城が揃って出席。それぞれの考えを語った。
宮城「愛知らしさ、静岡らしさ両方が入ったら良いなと考えていましたが、自分が演出するとなると、興味のないことはできないのも事実でした。今は、多くの困難が立ちはだかる時代ですよね。こういう時には昔から“詩人の言葉”が必要になってくる。雑音の中から澄んだ音を放つような、すごくシンプルに世界のことを語る言葉というのか……、それが『寿歌』にはあります。ただ、わかりやすくはないし、遥か彼方から聴こえてくるような音なので、読み解くには書き手の身体と同化しなければダメだとも感じます。想さんの身体を引き受けられた時、初めて言葉の意味がわかってくるのではないかと」
舞台は関西の荒野。旅芸人のゲサクとキョウコがリヤカーを引きながら歩いている。遠くで“残りもん”のミサイルが光る中、ふたりはヤスオと名乗る青年と出会い、しばし旅を共にする。おかしな芸を売るゲサクとキョウコ、不思議な能力を持つヤスオ。3人は漫才のごとくバカバカしい掛け合い見せるが、時おり示唆に富んだことを言うのでドキッとさせられる。やがてキョウコは恋心を芽生えさすも、別れの時はやってきて……。
北村「この芝居は3人でできること、荒野という設定なので舞台装置がいらないことから、リーズナブルな作品というのが売りだったんですけど(笑)、先ほど大変美しい舞台模型を見せてもらいまして。宮城さんの『作者の身体と同化する』という読み方も、なるほど、面白いと思いましたので、どんな表現をされるのか興味が湧いています」
宮城「『寿歌』は“空白”が大事な戯曲だと思うんですよ。言葉の後の隙間を論理で埋めてしまったら、つまらなくなる。僕もキャリアが長くなり、理屈にとらわれるようになってしまった自覚があるので、今回は自戒も含め、20代の頃にあったかもしれない“言葉から離陸する”力や感覚を思い出して取り組もうと考えています」
宮城の演出家としての直感は、『寿歌』が必ずしも理詰めで書かれたわけではないこととも結びつく。1979年の夏、北村は療養のため帰省中の滋賀で『寿歌』を執筆したが、その完成までには神がかり的なエピソードが尽きない。
北村「『寿歌』は4組のキャストが回替わりで初演していて、もともとは練習用台本でした。体調が悪いため長く書き続けるのが難しく、筆が止まると辞書を開き、そこに【櫛(くし)】という言葉があったら台本に綴っていくという……。いい加減なものですよ(笑)。ラストシーンに雪を降らせたのは、身体が熱っぽかったから。私自身が雪を見たかったんです」
冗談も交えているが、北村の話は真実である。さらに驚くべきは、この戯曲が当時のボールペン原紙に一言一句の訂正もなく直接書きつけられたこと。下書きは存在しないのだ。そういう経緯もあってか、発表後は良くも悪くも北村にとって思いがけない反応があり、何が書いてあるのか自分自身わからなかったとも告白。しかし今では「私自身の人生の予言のようなもの」と了解している。
北村「『これは演劇じゃない』と言われたり、バッシングもありました。思えば『寿歌』は、アリストテレス的なものじゃなくてハイデッガー的なものだったからでしょうね(笑)」
結果「寿歌」は岸田國士戯曲賞にもノミネートされ、現代演劇史にその名を刻み、上演が途切れない。ただ、それは世界が幸福ではないことを意味するのかもしれない。終幕の光景は圧巻の美しさだが、同時に人類の永遠に変わらぬ哀しみを浮かび上がらせる。「寿歌」を支配する“明るい虚無感”は、40年近く経ってなお、私たちの心を揺さぶってやまない。 *トップ画像は作者の北村想(左)と、演出の宮城聰
愛知県芸術劇場・SPAC(静岡県舞台芸術センター)共同企画「寿歌」 ◎3月24日(土)~26日(月) 愛知県芸術劇場小ホール 愛知芸術文化センター公式サイト ◎4月28日(土)・30日(月・休) 舞台芸術公園 野外劇場「有度」(静岡県) 静岡県舞台芸術センター公式サイト ※全国ツアーあり。5月18日(金)~、熊本県・ながす未来館、福岡県・北九州芸術劇場小劇場、茨木県・ひたちなか市文化会館、愛知県・パティオ池鯉鮒(知立市文化会館)花しょうぶホール、愛知県・小牧市市民会館を巡演。