top of page

五十嵐匠監督が貫いた嘘の流儀


重松清の同名小説を映画化した「十字架」は、五十嵐匠らしい嘘の流儀に貫かれた作品だ。「地雷を踏んだらサヨウナラ」「長州ファイブ」ほか実在の人物に取材した作品で名高い五十嵐監督だが、最新作「十字架」は第44回吉川英治文学賞にも輝いたフィクションを原作としている。そこにはどんな経緯や心境があったのか? 監督に尋ねた。

「実在の人物をずっと扱っていると、だんだん嘘がつきたくなるんです(笑)。今回は監督として劇映画10本目の節目にも当たり、フィクションに興味が湧いていたんですよね」

そんな時に出会ったのが重松の「十字架」。単行本の装丁と題名に引かれたという。

「まず薄いブルーの素敵な表紙が目に留まったんですよ。みんな売れそうなタイトルをつけている中、『十字架』というシンプルさも良かった。それで買って夜中に読んだら、ボロボロ涙が出ちゃって……。すぐ重松さんにも手紙を書いて、映画化に動き始めました」

「十字架」は、いじめを苦に14歳で自殺した少年フジシュンの死が作品の軸になっている。遺された家族はもちろん、遺書に思いがけず“親友”と記された少年ユウ、フジシュンに恋心を寄せられた少女サユは、20年にもわたって怒りや悲しみ、葛藤を抱えることに……。

しかし、いじめを題材にした物語に、TV局や映画製作会社の反応は冷たかった。東日本大震災以降、暗い内容が敬遠されるのは、どのフィールドでも同じことだろう。

「酒とシナリオ執筆の日々でしたよ(苦笑)。それが1~2年続いたので、いじめについては相当調べました。大津の事件や、西尾市の大河内清輝さんの事件、昨年は名古屋でもありましたね。そこで映画には、本当に発言された言葉をかなり散りばめています。教師や家族、PTAなどの証言を原作に足しているんです。でも実は、重松さんも執筆にあたって大河内さんの事件を取材していたそうなんです。だから僕の琴線にも触れたんでしょうね」

結果、映画では痛々しくて辛い場面が続くが、そこにこそ監督の信条とこだわりがある。

「わかってから嘘をつくのは僕の信条。いじめを知ってからフィクションにすること、曖昧にしないことは初めから決めていました。そして大人にも子どもたちにも、いじめの全部すべてを見せてやろうと思ったんです。そうすることで、亡くなった子たちの叫びが伝わらないかなと……」

強い覚悟で撮影に挑む一方、結末にはまた違った想いも。五十嵐はプレスリリースに「いじめの暗さから突き抜けた『青空』、それこそが私が描きたかった『重松ワールド』なのだ」と書き添えている。

「原作とは違うラストなんですけど、ユウの姿で完結したくて。泥が沈殿すると上澄みができますよね? それを撮りたかった。いじめが泥だとしたら、それが沈んだ後に見えてくるものですね。だって、上澄みがないと美味しくないじゃないですか。青空は上澄みのイメージであり、最初に『十字架』と出会った時のブルーにも通じるんです」

その狙いとも関係して、ユウとサユを小出恵介と木村文乃が最初から最後まで、つまり中学時代から30代まで演じるのも果敢な試みだ。自殺するフジシュンは子役の小柴亮太が務め、クラスメートなどはロケ地・茨木県のオーディションで選ばれた実際の中学生ばかり。そこに飛び込んだ小出と木村の格闘は大変なものだったはずだが、終盤へと向かうにつれ、確かに必要な演出だったと思わされる。

「2005年の映画『アダン』でも世話になった茨城県筑西市で撮影したんですが、この街は1980年代に“いじめゼロ運動”を行っていて、不思議な縁を感じましたね。そこに集まった中学生はみんな素人なので、提出してもらった作文をもとにクラス分けしたり、3カ月のワークショップを通じて芝居をするうち、だんたん組織が固まっていったんですよ。まるで野生動物みたいに(笑)。中学生はまだ、人間と動物の間みたいなところがありますからね。そうして中学生の中に組織ができあがってから、小出さんと文乃には参加してもらいました。もちろん簡単には入れませんよね。そこでふたりには、中学生たちとコミュニケーションをとるところから始めてもらったんです」

企画実現までに年月が掛かれば、制作が始まっても五十嵐はじっくり時間を掛けた。フジシュンの父親役の永瀬正敏、母親役の富田靖子らベテラン勢の存在にも助けられながら、やがて2時間の長編は完成する。「映画って、監督の腹の中で醸成しないといけない。味噌や醤油のように」とさりげなく言う監督だが、そこには並々ならない粘りがあったのだ。

「十字架」 ◎2月6日(土)~、名演小劇場にて公開 http://www.jyujika.jp/

タグ:

bottom of page