河瀨直美が初めて小説を映画化
文字どおり“餡子”を意味する「あん」。やさしい響きのタイトルながら、この映画には人生の深い深い真実が刻みつけられている。人生に正解はない。ただ、自分がどうあるか、どう生きるかによって、森羅万象が違った表情を見せ、人生の味わいもまた変わっていく。
ドリアン助川の同名小説を河瀨直美が映画化した「あん」は日・仏・独の合作で、第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門のオープニングフィルム正式出品も決定して話題だ。1997年の劇場映画デビュー作「萌の朱雀」でカンヌ国際映画祭カメラドール(新人監督賞)を史上最年少受賞以来、カンヌの常連となり、2012年には同映画祭で日本人初の審査員まで経験した河瀨監督にとっては当然の成り行きだろうか。しかし、「あん」は河瀨が原作モノを映像化する初めての試みだった。
これまでオリジナル脚本をドキュメンタリー的な手法で撮ってきた河瀨。ドリアンとは、河瀨作品「朱花の月」への出演など通じて親交があり、映画「あん」製作が実現することに。キャストには主人公・徳江の樹木希林をはじめ、どら焼き屋の店長・千太郎に永瀬正敏、その店に通う中学生・ワカナに内田伽羅。この内田は樹木の実孫なので、家族共演として観ても面白い。そして徳江の親友・佳子には市原悦子が配され、久々の映画出演と同時に、樹木との初共演も果たしている。個人的には、どら焼き屋のオーナー役の浅田美代子と樹木の共演に、テレビ黄金期の名ドラマ「寺内貫太郎一家」を思い返したりも……。なお、原作の舞台のひとつとして登場することから、愛知県新城市でも一部ロケが行われたという。
物語の軸は、どら焼き屋「どら春」の店長・千太郎とアルバイト志願の老女・徳江の出会いと、美味しいどら焼き作りの奮闘だ。わけありで雇われ店長の身にある千太郎はどこか影がある一方、身元不明で一見怪しげな徳江はどこか飄々としている。ふたりは徳江お手製の餡をきっかけに距離を縮めていくのだが、その様子が微笑ましくてユーモラス。また、餡作りそのものが丁寧に映し出されて興味深く、観る者をぐいぐい引き込んでいく。こういったところにも河瀨作品らしさを見て取れるのではないか。徳江が小豆という自然の恵みに向き合い、餡子に仕上げていくプロセスには、温かくも厳粛なものを感じた。
役者たちの存在の仕方にも河瀨監督の手法が活きて、生々しいリアリティに満ちている。特に、弱冠15歳、英国留学中ながら休暇を利用して現場にのぞんだという内田は、独特の雰囲気で目を奪う。ワカナなのか内田なのか、あわいを楽しみながら見入ってしまった。そして、そんなワカナにも見守られながら店は繁盛していくが、やがて彼らに残酷な運命が襲い掛かる――。
徳江はなぜ素性を明かさなかったのか、千太郎の過去には何があったのか? ワカナにも水野美紀演じる母親との間に複雑な関係が見え隠れし、3人は心を寄せ合っていく。ただし、徳江にのしかかる事情は歴史的・社会的な問題。対して見れば、千太郎とワカナは籠の鳥ではないのだ。どうあるか、どう生きるのか。3人の出した答えには涙があふれるも、同時に何か目覚めたような明るさをも感じるのだった。
「あん」 ◎5月30日(土)~、イオンシネマ・伏見ミリオン座にて公開 http://www.an-movie.com/